北杜市に移住するきっかけ 妻から子へのメッセージ

三浦家妻です。

2018年もあっという間に1カ月が過ぎました。

娘と私

三浦家妻です。

仕事を退職した時、夕方子どもと過ごす時間が多くなりました。

長女は小5なので、行動を共にすることも減りましたが、

友達が家に遊びに来た時や公園などで会ったときにちょっぴり観察しています。

いうまでもなく、それぞれ個性があって面白い!!!

 

まだまだ幼くてかわいい子、ませていて大人っぽい子、冷静な子、ニコニコ元気な子。

 

それぞれでいいね。

 

それに、長女の友達だと、

次女を「かわいい~」といって遊んでくれる子。

私とたくさんコミュニケーションとってくれる子。

 

様々です。

 

私たちも大人になって、知識や情報をたくさん得ていても、10年前と、20年前と変わってないところもたくさんありますよね。

 

子どもたちの様子を見ていて、自分の小さい時に投影してみると、私よりしっかりものだ!!

と、思ったりもします。

その子によって、親の影響や社会の影響もあれど、兼ね備えたものが違うと似ているのに、こうも違うのねって関心します。

 

 

また、日々を忙しく過ごす中で、今この瞬間だけの子どもたちの行動に目が向いてしまい、良いことでも悪いことのようにとらえたりしてしまいがちですね。

というより、親がどんな感情を今抱えているかで変わるのかもしれませんが・・・

親としてはやってほしいこと山積みですけど・・・

声掛けのタイミングとか、声掛けの仕方とか気になりますよね。

大体イラッとする状況👇

  • ずっとテレビ見てる。
  • 宿題やらない
  • ゲームやりすぎ
  • 片づけしない

でしょうね。

ただ、朝送り出して、夕方遅いと4時頃に帰宅。

その間、ず~っと頑張っているし、好きなことしてもいいよね。

やってほしいことの順番が違っても、最終的にできれば問題ない。

出来なかったとしても、次にできればよいじゃない。

 

 

今この瞬間だけにフォーカスするのではなく、大きな視野で子どもたちを見つめられるようにいたいです。

 

強さ、弱さ、ぜーんぶ含めてそのままでよいのでしょう。

 

娘たちの使命にワクワクします。

喜怒哀楽すべてを使って自分を確立してもらいましょう。

 

母も然り。

 

よし!!!

※母は片づけをできるようにがんばりま~す(笑)

 

移住するきっかけ 娘へのメッセージ

先日、北杜市が移住希望ランキングでナンバー1になったようですね。

それぞれがそれぞれのタイミングで生活スタイルを変えるきっかけがあり、

人生には本当にストーリーがあって素敵ですね。

 

我が家三浦家も今に至るまでのストーリがある。

 

ストーリの一つ。

まぎれもないきっかけ。

2011年3月11日の東日本大震災。

これが私の人生の転機。

もうこれを機にこの流れに乗らなければ、これからの人生を変えるきっかけは永遠に失うのではという想い。

ちょっとおおげさだけれど、今はそう感じている。

 

キラキラ家族でもなく、ボジティブでもネガティブでもなく、

ただただ一人の人間としての私と家族とのリアル現実と理想。

 

6年越しに実現する私の目指してきた姿。

このタイミングでしっかりと記録に残したいという想いが湧いてきている。

 

自分の為と、いつかこのブログを見るかもしれない娘たちへ・・・。

 

さて、2011年3月11日から世界がガラリと変わったこというまでもない。

といっても、この世界は日々変わらずに、いつもと同じように流れているだけ。

変わったのは私の考え方、想い、視点、感覚、在り方、捉え方・・・・

 

当時の私はそんなことを考える余裕もなく、日々に一喜一憂するばかり。

 

津波の映像を見ては気分が落ち、自分じゃなかったことに少しほっとして他人事。

どうしてもこんなにもでかい津波がきたのか。

無残。不平等。死に対する恐怖。

残酷過ぎて受け入れられない。

意味が分からない。理解したくない。

 

震災当時、夫は世界一周の船旅「ピースボート」に仕事で乗船中だった。

日本に残っていた私と、4歳の長女。

私のおなかには次女がいた。

3人暮らしをしていたので、不安でたまらなかった。

怖くて、不安で、どうしたらいいか判断が出来なくて、何をしたらよいかもわからなくて。

 

けれど、泣いている場合ではなかった。

不安を共有できる夫がいなかった。誰とも本音で対等に共有できないことの苛立ち。

とにかく不安である状況を子どもに伝わらないようにと必死だった。

 

友人宅へと身を寄せたり母親が来たりしてくれたのだけれど、埋まらない。

 

それに加えて原発の予断を許さない状況。

その時のことを実はあまりよく覚えていない。

わけがわからなすぎて、原発がやばいとかやばくないとかそんなことが頭にはいらない。

恐怖でどのような行動をとったかを消されてしまった感じ。

 

そもそもだけれど

「原発ってなに??」

 

今思えば世間知らず過ぎてよくもここまで生きられたなと思ったり(笑)

でも知らなくても生きられてしまうのですね・・・色んな意味で怖いです。

 

放射性物質がどうとか、水素爆発がどうとか、ほんとに怖くて、どうしてこうなっているのかもよくわからない状況。

でも、実は・・・

震災が起きたことより、夫がいないことの方が不安だった。

船に乗ることだけで考えると3ヵ月間、夫が家を不在にすることは、毎回私にとっては一大事。

にもかかわらず、そこにとてつもなく恐怖になるような状況が出来てしまった事。

いったい私は誰に支えてもらえばよいのだろう・・・とお先真っ暗状態。

 

震災後、原発が危ないということで、

夫の乗船中の船では、女性、子供、妊婦は出来るだけ遠くへ逃げるようにということだったらしい。

 

案の定、夫からも電話でそのような指示を受けた。

けれど私は、もうすぐ産休の身。

子どもたちより、私自身の仕事を選んだのである。

 

その時は、原発が何なのか。どんな恐ろしいものなのかを全く以って知らなかったから・・・

 

ニュースでは津波の映像と原発事故の影響などが延々と流れ恐怖に煽られていた感じ。

 

原発が爆発後、水道水から放射性物質が検出された。

乳幼児がいる家庭には500mlのペットボトルのお水が2本支給された。(たった2本www)

 

我が家は妊婦だったので支給対象外。

 

その時はそんなに怖いものではないと思っていたので、ガンガン水道水使う派でした・・・・・

 

周りの友人からは大丈夫?とか、お水手に入ったから送ろうか?とかたくさん心配してくれた。

お水?大丈夫だよ!!

 

それにしても、無知であることは怖い。

数年間は水道水を飲んでいたことを毎日後悔し、

野菜からも放射性物質が検出したことで無知だった私はきのこばかり選んでいたwww

わかる人にはわかるけど、きのこがあんなにも放射性物質を吸収しやすいなんて驚き超えて笑えるレベル。

 

原発に対しては、怖いと思っていたけれど、実際どういう行動をとればよいのかがわからなかったというのが本音。

もっと正確に言うならば、十分な資金がなく、大げさかもしれないけれど、子供たちの命、避難すること、

毎日の飲料のためのお水を買う事、安心できる食材を買う事を選ばなかったということ。

 

当時、母乳からも放射性物質が検出されたという情報も入ってきていたのだけれど、

検査する場所や費用を考えるとお金をかけることが出来ずにいた自分。

本当に検出されてしまった場合どうしたら良いのかが全く分からず途方にくれるだけだと思ったので踏み切らなかったのだと思う。

でもそれでよいのだ。本当に必要だと思ったら何が何でもやっているから。(今振り返るとですが・・・)

 

当時は、そうやって毎日が過去への後悔と今生きることの罪悪感、将来への不安でしかなかった。

生活をシフトしきれなかった。

後悔でしかないという事。

本当にこれに尽きます。

守りたいものを守るために、本当にしなければいけないことが出来なかった悲しみと、後悔は果てしない。

 

自分の事を責めて責めて責めまくった。

泣いて泣いて泣きまくった。

人生どん底だと思った。

生きていくのが怖くて生きていたくないと思った。

 

毎日、長女にはしてはいけないことを強要し、しなければならないことも強要し、私の不安定な心をぶちまけていた日々。

自分の芯が定まらないまま、子育てをしてきていたので、これがきっかけで、さらにブレまくっていた。

 

土は触ってはいけない。

水は水道水を飲んではいけない。

給食の牛乳は飲んではいけない。

外に出る時は必ずマスクをしなければいけない。

 

どこまで逃げればいいのか、どこまで食事を気にしたらよいのか。

全てに疑心暗鬼。

何を信じて生きればよいのか・・・とはこのこと。

 

お母さん4年目にして大きな試練の始まり。

そして、今だから思うけど、震災をきっかけに私はお母さんとして生きていくことが決まったのだと思う。

 

こんなことを想いながら、さてどうしていこうかという事を少しずつ少しずつ考えがはじまった。

 

原発について調べれば調べるほど、ネガティブな作用しかない。

 

福島第一原発はずっと綱渡り状態なこと。

次に何か起きて爆発しようものなら、人が住めなくなる場所がもっと増え、

何も知らない人達と、動き始めた人たちの差は広がる。

 

そんな不安定な毎日のなか、地域のママたちとつながり始めた。

今の自分たちの住む地域の状況を把握するために、近所の公園や子供が立ち入りそうな場所を隈なく放射能測定器を使用して測定したことがある。

ママたちとはお茶会と称して、今の不安な気持ちや、情報共有をして、自分たちそれぞれの安心基準確立していったのだと思う。

 

人間とは欲深き人間であり、同じような悩みを抱えている仲間の中からまた、比較をしはじめる。

・安心安全基準の比較

・避難するかしないか、避難か出来るのかできないのかの比較

・子どもの保育園や小学校にお弁当を持参しているかしていないかの比較

・夫の理解があるかどうかの比較

・情報を得ているかどうかの比較

 

自分自身が人と比較してしまう癖があったため、これに関してはかなり苦痛だった。

私が作った基準で、その枠からはみ出す色んな人やモノをシャットアウトしていた。

当時は家族(夫と私の実家や姉弟)や友達ともかなり距離を置いていた。

というか置かざるを得ないくらい精神が不安定だったから。

 

なぜこんな状況なのに、子供たちに(孫に)放射能汚染された場所に行かせるのか。

なぜこんな状況なのに、こんなものを食べさせようとするのか。

なぜこんな状況なのに、知識や情報を得ようをしないのか。

 

震災以降の1.2年こんな状況がつづいていたんだよね。

震災後、本当に夫婦としてもたくさんの状況を乗り越えてきた。

喧嘩もしたし、慰め合ったし、喜び合ったし、悲しみも共有してきた。

私にとって、自分を支える為の心の支えが唯一、夫だったということ。

 

このことが今の私を形成する一つ。

ココから私の本来の自分になってくきっかけ。

 

自分の幸せを考え始めよう。

やりたくないことはやらない。自由に生きることを決めた。

自立しよう。

家族でも、子どもでも、夫でもなく、支えていくのは自分自身しかいないのだから。

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ABOUTこの記事をかいた人

30代・二児の新米主夫。田舎に生まれ育ち、世界一周、国際協力を経て、山梨県北杜市に家族で移住。転職、ゼロからのスタート。念のためJターン。目的を持った人が集まる場所作り計画中。生き方を振り返る記録や自己紹介になるブログ。都会から田舎への移住生活、田舎暮らし、農的暮らし、旅、家族について書き連ねる。 #山梨県 #北杜市 #移住 #家族 #子育て #世界一周 #田舎暮らし #農業 #くだらない写真 #農的暮らし #家族 #主夫#世界一周 #旅