私は価値ある人間か?
移住してすぐ
ふと、「私は価値がある人間か?」と考えた。
そもそも、自分に価値があるかどうかって、自分で決めることではないと、
これまで散々周りに話していた側だった。
それは今でも大きくは変わらないが、今はちょっと違う。
誰よりも何よりも、自分を一番大切にしてあげる時代が到来した、と思った。
ただ、改めて考えるいい機会だったので、考えてみた。というお話。
価値観、仕事、生き方、成長などなど、
文章めちゃめちゃ、三浦のメモ
価値とは
「価値のない人間」なんていない、
というより自分の価値に気付いていない、というよりハードルあげて考えすぎなんじゃないかなと思う。
価値(かち)とは ※ウィキペディア調べ
あるものを他のものよりも上位に位置づける理由となる性質
人間の肉体的、精神的欲求を満たす性質
あるいは真・善・美・愛あるいは仁など人間社会の存続にとってプラスの普遍性をもつと考えられる概念の総称。
物事の持つ、目的の実現に役に立つ性質
もしくは重要な性質や程度を指す。
何に価値があり、何には価値がない、とするひとりひとりのうちにある判断の体系を価値観と言う
この「他のものよりも上位に位置づける」「プラスの普遍性」という言葉が、おそらく「重たい」フレーズなんだと思った。
プラスで上位に位置づけしないと、価値がないのか?って。
一方
「目的の実現に役に立つ」ってのは、幅広い解釈ができて良いと思った。
これは、役割分担、みんなの個性が集まったらいい、って話しとして、腑に落ちる。
価値観
さて、価値に続き、「価値観」という言葉がでてきた。
「価値観が違う」って当たり前だと思う。
みんな違う。それぞれのモノで、どちらが良いとかない。
これまでの経験上、価値観×価値観の化学反応が楽しい。
そして、その化学反応の場に立ちあえることは、心から楽しいと思ってきた。
これから自分が人生60年ほど生きるにあたり、どんな価値を示していけるのか
どんな価値観で活きていくのか。
生き方、生業などとかなりリンクすると思って、一度掘り下げてみたくなった、というお話。
結論に近いが、生きているだけで価値がある。
もちろん、死んでも価値があるが
自分が価値を創造する時、何を提供できるのか。
自分に、人に、家族に、仲間に。
人の価値観に触れることができることも、幸せな生き方だと思っているので、突っ込んで生きたい。
成長
続けて成長。
自分は成長しているか
大人も子どもも「成長」の指針がわかりずらい。というより、実感がないとも言える。
ゴールを決めて日々過ごすといいらしい。
ゴールといっても、難しくなくていい。毎日のゴールでもいいらしい。
ゴールか。。。
子どもも、大人も、やりたいことだけやっていていい時代だと思う。
やりたいことを目指すから成長して、人が集まってくるのかなと。
AIって、もう出てくるでしょ。
AIって、人間がめんどいと思うことをやっていくことが多い、またはニーズがあるのかなと思う。
だったら、やりたいこと、AIができないことをやる。
何となくできることをやるから、成長しない。
結果、つまらない。
AIと競うような構図はちょっとイヤだな。
生き方
昔は
銀行にお金を預けて金利が高くて、大学進学して、会社で終身雇用して、老後は年金もらってゆっくり
が価値ある生き方だったらしい。そういう時代。
戦後の高度経済成長でもまれていた時代の人は、正攻法が全てだった時代。
自分たちの親とか世代かな。
ある意味、仕方がない。
この前、家庭学習教材の営業を受けて、大学や教育に関する考え方は、やっぱ自分とは違うなと感じた。
もちろん、今もそういう価値観もあって良い。
ただ、その時にも言ったが、いい点を取る為の勉強、詰め込む勉強であれば意味ないと思っている。
子どもに良く言うが、目の前の勉強が、よくわからず名の知れた大学に行く為の作業であればやる必要ない。
大学にいくことがゴールではない。
みんな同じ学力が当たり前。
平均が良い。
できないことをやらそうとするのが、今の学校教育なのであれば
できないこと、やりたくないことはしなくてよい、という人がいてもいいと思う。
やりたいと思ったことで必要なことは、勝手に努力していく。
周りにいるかっこいい大人達の背中、生き方、楽しみ方を見ている。
もちろん、本人が大学に行きたいと思ったら自ら頑張るとは思うので、応援してあげたい。
それでも物を買い与えず、経験を買ってあげたい。
みんなちがって、みんないい。
いま私が子どもだったら、youtuberを目指していてもおかしくない:笑
高校卒業真近にお金を貯め初めて、テーマを少し絞って世界一周して
一度東京の丸の内とかの会社でどっぷり働いてお金を稼ぎつつ、脱サラして20代後半で大学行って
とかもいいなって、思う。
今、大人になってから、大学に行きたいって思うくらい。
やる気スイッチ
大人も子どもも、やる気、勇気、覚悟って、バラバラ。
子どもに無理やり勉強させることよりも、先に何のための頑張って働くのか、そのために数学が必要だと思ったのなら学びが加速する。親の背中で、子どもはみえるものなのかな。
わざわざスイッチを押さずとも。
無理して背中を見せたり、楽しんだりするのも苦しい時あるけど、やりたいことをやるぞ、という姿勢。
簡単にできることはつまらない。難しいことばかりやりたがる、充実感を味わいたいって、そんな時期もあったけどね。
ただ、今は、小さなやりたいことをやり続けていく。
やりたい、食べたいことを全部書き出していく。
何が食べたい、だけでもいいと思う。それもゴール。
それを達成していくことが大事。
そのための努力や勉強は、勝手にやる気スイッチが押されるのかなと思う。
次女は、髪の毛切りたい。ご飯食べたい。
私は、うどん食べたい、怪我を直して畑に出たい。太鼓叩きたい。
長女は、期末テスト頑張りたい、東京で買い物したい
※ひとまず、マジメな家族のようだ。
生業・ナリワイ
続けて、流れで、仕事。
何をやるかよりも、何を目指すか。
たくさんの職業、儲かる話などあるが、一方で、色々な生き方が多い。
得する人と、損する人がいる時代。
そんな泥沼の中では、気持ちいい呼吸なんかできやしない。
ましてや山梨県北杜市で吸えるような、心からおいしい空気を吸ってみたことがある人は、なおさらそう思うと思う。
どうやったら自分が楽しいか、幸せか、なんなら人を幸せにするか。
それが仕事になるか。何をしたらありがとう、なのか。
頑張っているかどうかではなくて、幸せにしているか。
いい仕事は人を幸せにする
人の役に立つと仕事になる、社会性があると事業になる。
起業するって、そういうこと、なのだと思う。
孫が祖父母から「来てくれてありがとう」と言われてお小遣いをもらう
これも、れっきとした価値がある行為。
自分が楽しいことで、自分がふとしたことで誰かの喜びになるだけで、価値があるのかな。
誰かとは、誰なのか。
もちろん、自分では気づかなず、無理して喜ばせようとも思わなくていい。
自分は何がしたいのか。これはハードルがあがるので、
「何をしたら楽しいのか」を説いて見る。
楽しいことじゃなくても、仕事だからやるんだよ!でもいいと思うけど、まずは楽しいことを考えてみると気持ちいい。
もう一度言う
価値とは何か
共感と感動によって人が動く時代
何でもいいと思う。
結論
「私は価値ある人間か?」
ではなく
今、思えば、「私の価値は何か?」だったようにも思える。
何よりも誰よりも
自分を一番大切にしてあげる時代、到来。
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